「武器としての「資本論」」批評

 「武器としての「資本論」」((白井聡,2020、東洋経済新報社。以下「同書」)は、大学の講義内容と思われるが、わかりやすく説明することに集中するあまり、多くの間違いをおかしいている。
 労働運動の観点から主だった間違いを指摘する。

1.労働者と資本家の関係

 労働者と資本家には圧倒的な力の差がある(p215)との認識が基本にあり、それは次のように表現される。

「資本家は労働者に、あるいは上司は部下に命令して従わせることができますが、それは後者が前者を人間として尊敬しているからではありません。そこには人格的な支配関係があるわけではない。ゆえに、それは封建的社会における『親分・子分』の関係とは、別のものです」(p60)

 しかし、なぜ上司が命令できるかについては説明をしない。そのかわりに、資本主義的生産様式は「資本のもとへの労働の形式的包摂の基礎の上に育成され、形式的包摂に代わって実質的包摂が現れる」という資本制社会の特徴であると解説する(p62)。
 この形式的包摂と実質的包摂について、マルクスは資本論に先立って[直接的生産過程の諸結果]で検討し、資本論に反映させているのであるが、ほとんどの論者は「包摂」を「従属」と言い直すこともあるように、資本家による労働者の包摂(支配従属)と説明する。しかし、白井が引用する資本論にあっても「資本のもとへの労働の形式的包摂」、「(資本のもとへの労働の)形式的包摂に代わって、実質的包摂が現れる」と記述されるように、資本による労働の包摂であって、決して資本家による労働者の包摂ではない。ちなみに上記引用の( )部分は資本論英語版に書かれていない。
 資本家による労働者の包摂と理解することから、白井は「おそらく『包摂』の概念の射程は、もっと広大なのです。それは『包摂』の進化に終わりは設けられないからです。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになる」(p90)と、新自由主義段階を説明してしまう。
 しかし、マルクスは[直接的生産過程の諸結果]においても、生産過程における資本家による監視・管理は「経済的」なものであり、「人身的支配・従属関係ではない」という。そして資本論3巻では「資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。・・・この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのである。」という。

 労働者と資本家の関係はあくまで「経済的」なものであるにもかかわらず、これを人格的な関係に持ち込み、白井も多くの左翼論者と同様に、ここから「階級闘争」に誘導しようとする。
 しかし、資本論の特徴は「物象化」といわれるように、経済システムを、物と物との関係でとらえることにある。このことをマルクスは「資本家とは人格化された資本」(資本論第1巻)、「賃金労働者とは賃労働の人格化」(資本論第3巻)と規定する。この意味で白井の、「(p253の資本論引用(②96頁)について、)この文章はマルクスが、人格的なカテゴリーで資本制社会を捉えることに対する、ある種の戒めとして言っているように聞こえます。『資本家には人格などない。資本が人格化されているだけなのだ』と言っているのです」(p254)、との表現は誤解を与える。マルクスは、「資本家には人格などない」とは言わない。
 なお、「包摂」はときとして「資本論」(大月書店版)などにおいても「従属」と訳される。これは、従属労働説の根拠となっているとおもわれる。

 「資本家は労働者に、あるいは上司は部下に命令して従わせることができる」とすれば、それは労働力商品を購入した資本家が(上司を通して)、その商品の消費(すなわち労働力の使用)にあたり、労働力の保持者たる労働者の所作を求める権利があるからにほかならない。そこには封建的人格的関係もあるいは実質的包摂といわれる従属関係もないのである。

 また、資本のもとへの労働の包摂とは、労働が資本主義的システムに組み入れられることであり、この意味で資本も「包摂」されるといえる。つまり、資本経済システム以外のシステム(例えば、労働の徴発、共同地入会権など)は存在せず、資本による労働力商品の購入と使用による生産しか存在しないことを意味するのである。

2.賃金論

 白井は、マルクスはリカードの賃金生存費説をうけいれ「労働者の再生産に最低限必要な程度が労働力の交換価値になるのだ」という(p123)が、別の個所では、「労働力の価値は、労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている」(p267)という。白井にとって、労働者と労働力は同じことを意味しているのは、上記1.でみたとおり、資本と労働(力)との関係を、資本家と労働者の関係に還元するからであろう。
 「労働者の再生産」というわかりやすい表現は、しかし労働者と奴隷(農奴)とを同一視する危険をはらむ。
 白井は、剰余価値が生まれるのは「労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きいから」(p120)であると説明し、その剰余部分を資本家が搾取するという。賃金が労働に見合っていないといいたいのであろう。これはマルクス経済学者のほとんどと同じ見解だが、剰余価値を賃金=労働力商品価格で考えることで解決する。その意味で、白井賃金論は中途半端である。

3.工場法の理解

 白井は、工場法についてマルクスは「搾取を持続させるために、工場法を制定して労働者を保護したという」と捉える。「『これは資本主義の矛盾の現れであり、この矛盾から資本は自己規制しなければならなくなったのだ』とマルクスは言っているのです」というが、引用文献を示していない。この工場法の理解は、大河内一男の労働力保全説と同じである。
 この点、斎藤幸平は工場法には触れないが、「国家の暴力によって、彼ら(エンクロージャーで土地を追放され浮浪者や物乞いになった農民のこと-山下)が時間を守って、真面目に働く労働者になるよう規律訓練しなくてはならなかった」(「人新世の『資本論』」p372)と、資本の意図を見抜いている。

 工場法については、ハチンズ・ハリソン著「イギリス工場法の歴史」、戸塚秀夫著「イギリス工場法成立史論」が詳しい。

2020.11.11

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