賃上げは労働移動ではなく、交渉で

  23春闘への一視座 

 政府、経団連、連合による政労使会談が開かれようとしており、なかでも賃上げ実現は重要案件となっている。賃上げの理由ついての認識は異なるが、日本における賃金の低さが際立っていること、それが多方面に影響を与えていることから、三者ともプレッシャーを受けていることは間違いない。
 賃金の推移について、よく引用されるのがOECDの平均賃金推移である(図1)。過去30年の主要国およびOECDにおける平均賃金の推移をみると、日本だけが横ばい状態である。この平均賃金は購買力平価(PPP)で換算したものであり、国・地域別実態が比較できる。そして、2015年に韓国賃金が日本を上回ったことも注目されている。

図1 出典:https://data.oecd.org/earnwage/average-wages.htm

  根拠あやしい賃上げ論

 30年間も賃金が据え置かれた原因を、終身雇用や年功賃金にもとめ、職務給、job型賃金、労働移動・リスキリングを導入せよとの合唱が始まっている。ここぞとばかりに転職雑誌(サイト)、バイトアプリのコマーシャルがあふれかえる。これを唱える者たちの多くが、欧米では職務給、job型賃金、労働移動・リスキリングが当たり前という。欧米をひとくくりにする問題は別としても、アメリカは企業横断の職務給だから、企業業績にとらわれずに賃金が上がるともいう。
 果たしてそうだろうか。
 アメリカにおいても公務員や非営利団体職員には給料表(schedule)が適用されていることはよく知られている。公立学校においては、教員、事務職員、看護師さらに事務補助、給食調理員などほとんどの職種毎に給料表が定められており、昇給がおこなわれる。昇給基準は州や市によって異なるが、基準をクリアすれば昇給する。例えば筆者が交流するウィスコンシン州マディソン市の教員給料表(2022-23)は表1のとおりである。

 表1 出典:Munis Data and Teacher Salary Table 2022-23.xlsx (finalsite.net)

 民間企業において給料表は見られないが、勤続年数による昇給が若干行われる職務等級ごとの昇給枠(賃金レンジ)があり、ブルーカラー労働者の場合には, 勤続年数による昇給が多く、労働組合に組織化されている場合は特にそうである、との分析がある(竹内一夫2004)。
 賃金レンジや昇給制度がない企業における賃上げについての資料を見つけられないため、筆者はロサンゼルスの知り合いAにインタビューをした。
 Aは大卒で他職についていたが、30歳で作業療法士として働き始め、大学院に通い修士学位を取得した。35歳で民間病院の医療事務の職を得た。
 Aの病院には労働組合が組織されていないが、同僚の中には賃金レンジが適用される職種もある。Aは現在50代半ばで、入退院患者コーディネーターをしており、過去15年間の賃金推移は図2のとおりである。賃金は税金等の控除前の額面賃金である。税金、保険金、退職金、年金などの制度は国や地域で異なるため、賃金推移は額面賃金で比較した。
 Aの賃金は棒グラフ(左軸)で表わされ、当時のレートで円換算したのが折れ線グラフ(右軸)である。2007年は年収80,000ドル(936万円)、2022年は165,000ドル(2,160万円)である。Aは2013年に転職したが職種は同じである。
 5年毎の昇給率をみると、42.5%(2007-2012)、15.7%(2012-2017)、25%(2017-2022)である。2013年に転職しているから、転職時の昇給率は低いといえる。

 図2 出典:A額面賃金をもとに筆者作成

 アメリカの平均賃金推移を図1でみると、2006年61,085ドル、2011年63,349ドル、2016年66,260ドル、2021年74,738ドルであり、それぞれ昇給率は3.7%(2006-2011)、4.6%(2011-2016)、12.8%(2016-2021)である。Aの昇給率はアメリカ平均賃金を上回っていることがわかる。
 Aの賃金は、同一職種と思われる(Medical and Health Services Manager)の同一地域のそれとほぼ同じである(米国労働省労働統計局データhttps://www.bls.gov/oes/current/oes119111.htm)。Aの賃金が全米平均を大きく上回っているのは、一つには修士学位をもっているからであり(小熊英二2019,119頁)、二つには大都市圏に働いているからである(上記労働統計局データ)。ちなみにAと同一職種賃金は、大都市に比べて地方都市は半分である。

  「交渉するから」

 アメリカ平均賃金は、この30年間で49,121ドルから74,738ドルに52%上がっている。
 給料表が適用される上記マディソン教員賃金は3年前と比較して4.8%上がっている。給料表が適用されるから個々の教員はほぼ毎年昇給する。しかし高齢退職者の代わりに若手新人が採用されるのが常だから、全体の賃金額は変わらない。物価上昇対応や生活改善には届かないことになる。そこで、組合は毎年、市と交渉して給料表の改訂、すなわちベースアップを行う。
 アメリカの労働組合組織率が10%前後といわれるなかで、給料表や賃金レンジの適用者は多くない。では、給料表などが適用されない労働者はどうしているのか。

 Aはいう、「会社は経営状況をいうが、私は生活費と実績そして自分の労働が価値あるということを示して、私自身で精いっぱい交渉をする。その結果、賃金が決まる」。

 これこそが賃上げの基本原理である。

 あれこれの賃金制度、雇用慣行は賃金を決めるにあたっての副次的な要素である。アメリカにおいては、職務給が主流であったとしても、勤続年数による昇給があり、賃金は地域ごとに大きく異なり、転職よりも同じ企業のほうが昇給率は高い場合もある。解雇自由と職務給に基づく労働移動で賃上げが行われたというのは、説得力がない。
 日本においても労働移動、失業保険手直し、転職サイトへのアクセス、バイトアプリのインストールなどで賃上げが実現するとは思えない。

参考資料 

 小熊英二2019:『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社

 竹内一夫2004:『アメリカの賃金制度』https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2004/08/pdf/048-055.pdf

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