労働基準法に縛られない教員の働き方へ-教員賃金訴訟から-

はじめに 

給特法改正案が2025年6月国会で可決された。文科省vs財務省論争などが世間をにぎわしたが、教職調整額を10%に段階的に引き上げることで決着し、2026年1月から5%に引き上げられた。この改正給特法によっては魅力ある教員の働き方が実現するという見解は聞かれない。また、給特法か労基法かという二分法も論争にまではならなかった。つまり、国会議論等は教員の労働について何も変えなかったといえる。

そうした中、2025年5月福岡地裁飯塚支部で出された教員未払い賃金判決および教員超勤訴訟2021年10月さいたま地裁判決は、教員の労働について考察する材料を提供している。また、埼玉超勤訴訟事件で提出された原告側学者意見書も同様に検討するにふさわしい材料である。

この間、筆者は仲間たちと「教員はこんな働き方がしたい研究会」を立ち上げ、議論を重ねてきたが、研究会として満足できる結論は生まれなかった。

本稿は、この議論の過程で、上記資料をもとに魅力ある教員の働き方についての考察を進めたものである。したがって、両事件について全般的な総括を行うものではない。

1 会計年度任用職員未払い賃金事件-福岡地裁飯塚支部

会計年度任用職員制度が発足した2020年4月、コロナ休校にともない自宅待機と

なった非常勤講師は授業を行わなかったために、同月と5月に本来支給されるべき賃金が支払われなかったとして人事委員会措置要求を行ったが、審査中に退職したことから職員でないとされ措置要求は却下された。その後、同旨の内容で国賠訴訟を行った。非常勤講師は1コマ50分授業および授業前10分さらに授業後30分の合計90分が労働時間と計算され、整理簿(実績簿)に基づいて賃金が支給されていた。

原告となった非常勤講師は、本来支給されるべき賃金とはコロナ休校でなかった前年同期の賃金であるとする一方、学校および自宅において行った授業準備や教材研究(「教材づくりのための調査」という表現)が実労働であったと主張した。

これについて裁判所は、授業準備や教材づくりのための調査・研究に費やした時間は次回授業を行う時の授業前10分および授業後30分の労働時間に含まれるから、授業と独立した報酬の対象とはならないと判断した。裁判所の判断は根拠に乏しく、実際に授業を行うにあたり授業準備(例えば理科実験用具の準備)や授業後の児童・生徒対応に加えて従前に行っていた授業準備を報酬の対象とするという計算不能な整理をしている。

他方、「授業準備のために特定の時間を予め勤務時間として指定し、具体的な職務命令の拘束の下で勤務させたというような事情があれば別段、そのよう事情がない本件において、原告が出勤し、あるいは在宅で行った授業準備等について、そのすべてを勤務時間として認めることはできない」との判断も行っている。これは基本的には使用者の指揮命令下における労働を賃金対象とする考え方であり、とりわけ教材研究(研鑽)は労働ではないとの観点からすれば納得できるものである。教材研究を賃金対象となる労働とすれば、自ずと使用者の指揮命令の対象となり、使用者の意に反する研究・研鑽ができなくなるからである。

このように福岡地裁飯塚支部判決は基本的には指揮命令下における労働のみを賃金対象とする。しかし、従前に行っていた授業準備時間を実労働時間と混合させて賃金対象時間とするなど、合理性を欠くものでもある。これは、賃金を実労働の対価ととらえる陥りやすい過ちから出てきたものであるとともに、非常勤講師のいわば「出来高賃金制」および労働契約(勤務条件任用書)の不存在がさらに混乱を引き起こしている。これらの混乱は、後述するとおり賃金を労働力商品の価格として把握することで解決する。

本件訴訟における技術的問題点

  • 賃金請求の根拠を実労働としないこと

「労働契約」に基づく賃金請求を→後述

  • 加入ユニオンは「混合組合」である

未払い賃金請求団交は福岡県教委から拒否された。県教委は「登録職員団体でない」ことを理由としたようであるが、原告が加入するユニオンは混合組合であるから、団交拒否の不当労働行為で救済申し立てを行うこともできた。会計年度任用職員の労働条件について労働委員会救済申立てはホットな課題であり、今後の検討が期待される。なお、裁判報告集会でユニオン執行部から「まだ混合組合になっていない」旨の発言があったが、会計年度任用職員が加入した段階で混合組合になっている。

  • 福岡県人事委員会の措置要求却下の取り消し訴訟

本件訴訟原告が行った措置要求に対して、県人事委は措置要求者が退職している(別の自治体で働いている)ことを理由に、職員でないとして措置要求を却下した。会計年度任用職員はその性格上会計年度をもって退職することになるのだから、措置要求時に職員であったかが問われるべき。

2 正規教員超勤訴訟事件-さいたま地裁

 正規教員の所定労働時間を超えた業務(労働)への労基法37条に基づく時間外割増賃金請求(主位的請求)、および法定労働時間を超えて業務(労働)させたことに対する国賠請求(予備的請求)事件である。さいたま地裁は2021年10月に請求棄却、東京高裁は2022年8月に控訴棄却、最高裁は2023年3月に上告申立・上告受理申立を棄却した。

労基法37条適用は給特法によって除外されるとして、新たな論点は示されなかった。国賠請求にからんで、法定労働時間を超え、あるいは児童下校後さらには専科教員担当時間(空き時間)に行った業務が校長の指揮命令に基づいていなかったという判断が新しい論点として注目される。

裁判所は、空き時間等において校長の指揮命令に基づかずに自主的・自律的に行った業務は労働ではないとしたうえで、勤務時間外に行ったと主張する事務作業は勤務時間である空き時間にできたのであるから、時間外労働に当たらない旨の判断を示した。つまり、校長の指揮命令に基づく業務(事務作業)は勤務時間内にできたのであり、空き時間等の勤務時間内外における自主的・自律的業務は労働に当たらないということである。

しかし裁判所は、勤務時間内外において自主的・自律的業務と指揮命令に基づく業務が混然となって行われているから給特法による本給相当の教職調整額が支給されているともいう。だから空き時間は労働時間であると認定している。したがって、自主的・自律的業務にも本給が支給されているのであれば、空き時間に自主的・自律的業務を行うことは認められるのであり、その自主的・自律的業務を行わないで、事務作業を行うべきという判断は合理性がない。

裁判所は、指揮命令に基づいた労働だけが賃金対象であるとの見解をとっているといえる(この点、原告側意見書として地裁に提出された高橋哲意見書は、相補二要件説等を説明するが、指揮命令は不可欠要素である)。

たしかに、明示であれ黙示であれ指揮命令がない労働は賃金対象とはならない。しかし、指揮命令とは労働者のそばで労働時間中すべて行われるものではなく、労働者が指揮命令であると判断して労働することもある。この労働のあり方についても後述するが、労働力商品の売り手である労働者にあっては、自主的・自律的業務あるいは自発的勤務こそが希望する働き方なのである。

なお、時間外手当を請求した事務作業のなかに教材研究は含まれていなかったようであるから、裁判所もこの点については判断していない。 

3 毛塚勝利意見書について

 上記埼玉超勤訴訟さいたま地裁判決を受けて、原告側から毛塚勝利意見書が東京高裁に提出された。毛塚意見書は、国賠法上の損害賠償請求に焦点をあてて地裁判決を批判している。この毛塚意見書には共感できないところが多くあるので、本稿の趣旨に沿った点について私見を述べる。

労働力商品と指揮命令

毛塚意見書は、上記2で紹介した空き時間における自主的・自律的業務について裁判所が労働と認定しなかったことを批判する。しかし、その理由として校長の指揮命令がなくても、業務遂行であれば労働であるとする。これは相補二要件説を超えて、指揮命令不要説ともいえるものである。

すなわち、指揮命令は十分条件であり必要条件ではなく、職務遂行であれば労働であるとの立場から、さいたま地裁判決が労働時間である空き時間に教員は指揮命令外の業務(自主的・自律的業務)を行ったと認定したことを、「地裁判決は空き時間=自由時間と扱い」「職務遂行をしていたにも関わらず労働をしなかったと判断した」と批判した。裁判所は指揮命令が労働の必要条件であるとするのであり、この立場は労働契約の基本であろう。それを、指揮命令がなくても職務遂行があれば労働であるとの見解を維持するために、裁判所が「空き時間は労働時間」と認定しているにも関わらず、裁判所は「空き時間=自由時間」と扱ったと批判する手法は疑問である。

毛塚意見書は、指揮命令がなくても職務遂行であれば労働であるとする根拠として労働経済学的認識と法的認識を以下のように示す。

 たしかに、労働契約(賃労働)の対象である労働力商品は、他の商品と異なり、その買い手がいかなる目的にも利用できるところにその商品特性があるとの経済学的認識を基礎に、使用者の指揮命令権の存在こそ労働契約=労働力売買契約の特徴とみる見解もかつてはみられた。しかし、法的には、労働契約は、広狭の差はあれ、職務や職種で給付すべき労務内容を特定して契約するものであるから、使用者による労働力の利用は約定目的範囲内に限定される。したがって、労働者は約定目的外の指揮命令に従う必要はないし、また、約定業務が明確であれば使用者の指揮命令がなくても労務遂行は可能である。(p17)

毛塚意見書は、労働力を商品として捉えているが、指揮命令については混乱している。

あらゆる商品がそうであるように、買い手が商品を(消費)使用するのであり、売り手が消費(使用)を行うことはできない。労働力商品の消費(使用)とは、買い手である使用者が売り手である労働者に指揮命令をして労働力を機能させることである。労働力は労働者の肉体のうちに存在するのだから、労働者への指揮命令がなければ労働力は機能しない。

そこで毛塚意見書は指揮命令がなくても労働力商品を消費させるために、法的認識を持ちだして、労働契約には約定業務が特定されているから指揮命令がなくても労務遂行は可能であるという。しかし、約定業務の特定とは指揮命令に他ならないのであるから、約定業務と指揮命令を切り離す見解は成立しない。もちろん、約定業務が特定されない労働契約にあっては、指揮命令が適時行われて労働力商品は消費される。 

次に、毛塚意見書は「労働力商品は、他の商品と異なり、その買い手がいかなる目的にも利用できるところにその商品特性があるとの経済学的認識」があるという。このような経済学的認識があること筆者は知らない。労働経済学の主流は、労働力の商品性を否定するか、労働力は特殊な商品であるとして、一般商品と区別をしている。とりわけ、他の商品は「売切り」であるが労働力商品は「切売りあるいは賃貸」であるから、いわば「その買い手がいかなる目的にも利用できないところにその商品特性がある」としている(傍点、筆者)。

毛塚意見書は、労働力商品の特性を理解していないだけでなく、先達の研究を誤解しており、その経済学的認識は的を射ていない。

なお筆者は、レンタカーを説明ツールにして労働力商品は一般商品であるとの持論を展開している。そこでは、労働力は再生産を前提として消費されることから、その消費(使用)には内在的制約があるとして、「その買い手がいかなる目的にも利用できない」との見解を採っている。 

労働力の再生産

労働力は消費(使用)が終わると消滅する。しかし翌日には再び消費(使用)できるように再生産される。労働力を消費する労働時間が終わると、再生産の時間が始まる。この再生産時間について毛塚意見書は言及しない。毛塚意見書は、「労働時間が労働関係においてもつ5つの意味」の項で、労働時間の裏側には生活時間があり、とりわけLWBが重要視される今日、労働時間延長は家族・社会・文化生活時間を侵害するとして労働時間規制の強化を訴える。ここには、労働力の再生産という観点が欠けている。資本主義的生産様式の基礎にある労働力の再生産に言及しない労働時間規制は社会存続を考慮しない絵空事というしかない。

労働者保護法という一面性

労働力の再生産という観点を欠落させた毛塚意見書は、次のように工場法にはじまる労働時間規制等についても一面的な理解にとどまっている。

労働時間は、労働契約関係にあっては、労務提供義務の範囲を画し、賃金算定の基礎となるとともに、工場法以来、労働者の健康や安全を確保する保護法制の中心を占めてきた。

歴史的には労働者の1日10時間労働制や8時間労働制の運動を支えた論理は、長時間労働では 労働者は市民として社会生活を享受できないということにあった。(p1)

イギリスで最初の工場法が制定されたのは1802年といわれる。当時、産業革命と工場労働が大量の労働者を必要としたとはいえ、機械制工場とともに手工業も併存しており、中世からの職人や職工による製造も行われていた。これら職人・職工たちは自分の好きなときに仕事を始めたり終えたりすることができ、工場のベルにきちんと従う必要がなく、固定された労働時間なり就業規律なりに激しい嫌悪を感じていた。時間に束縛されない働き方を労働者は望んでいた。しかし、機械制工場は機械にあわせて労働することが必須であるから、労働時間制の適用は不可欠となる。

このようにみると、工場法は労働者保護というより労働者を規則正しく働かすための法律といえる。工場法の性格について「むしろ保護法は、本質的には、主導的資本の利益をこそ第一議的に保護しようとしていた、といっても過言ではあるまい」とする論者もいる。工場法は労働者保護法というよりも、労働力商品の売買関係を正常に保つための法的しばりであったといえる。工場法は現在の労働基準法に引き継がれている。

憲法271項―労働の義務

毛塚意見書は、労働時間規制は憲法秩序に合致するとして以下のように論述する。

憲法論からいえば、労働時間法制は、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」とする憲法27条の2項の規定に基づく営為であり、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする憲法25条の生存権保障に基づく規範定立行為に他ならない。(p4)

ところで、憲法27条の1項は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」となっている。そして憲法27条の1項は「勤労の権利」を定めたものと理解されがちであり、「勤労の義務を負う」についての解説は稀である。筆者が知る解説は、「健全な社会の存立もまた、働きうる全ての人々が働く権利と義務を持つことによって可能となろう。憲法27条1項が全国民に勤労の権利と義務を担わしめるという規定をしたのは、こういう趣旨に基づく」(小林直樹1980「[新版]憲法講義(上)」577頁)、あるいは「その意味は、社会主義国家の基本理念とする「働かざる者は食うべからず」(不労所得で生活することは許されない)と同趣旨である。しかし自由主義国家では、・・・自分の財産(とりわけ相続財産)の収益(利子・配当、地代・家賃など)で生活する者があっても、憲法違反とはいえない。しかし、そうした者が存在することは、多かれ少なかれ、他人の生存権を圧迫する結果になる」(我妻栄1974「法学概論」125頁)というものである。

この解説が正しければ、勤労の義務も憲法27条2項で規定されることになる。つまり、賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準を法律で定めて、勤労の義務を担わしめるということである。そうすれば、自分の好きな時間に仕事を始めるのでなく、少なくとも始業時間から終業時間までは勤労をしなければならなくなる。そして、工場・企業の生産は時間通りに支障なく行われる。資本主義的生産様式は憲法秩序に組み込まれた労働基準法等によって保護されるのである。労働者を資本主義生産様式に組み込むものとして憲法あるいは労働基準法があるという理解が成り立ち、それは工場法が目的とした労働者への労働時間規制なのである。

労働の喜びはあるのか

毛塚意見書は、「肉体的精神的負荷時間として労働時間」「長時間労働による肉体的精神的負荷の増大」(p3)というように、労働を肉体的精神的負荷と理解している。たしかに、使用者による指揮命令が労働者に肉体的精神的負荷を与えることは事実である。毛塚意見書は指揮命令がなくとも職務遂行であれば労働であるという見解を採っているのであるから、労働そのものが肉体的精神的負荷と理解していることに間違いない。だとすれば、労働者は労働の喜びを味わうことができないことになる。

前述したとおり、職人・職工は労働時間を自己コントロールしていた。工場法が導入されると労働時間規制が行われ、労働者は使用者が定める労働時間に縛られることになった。同時に、仕事の段取りも使用者から指示されることになった。このような働き方には肉体的精神的負荷が付きまとうだろう。

19世紀の職人・職工だけでなく、今日においても労働時間あるいは仕事の段取りを自己コントロールできるなら、労働者は肉体的精神的負荷とは別に労働の喜びを味わうことができるであろう。この労働の喜びを生み出す「働き方」が問われているのではあり、その一つに労働時間規制からの解放という視点があってもおかしくない。それは工場法以来の労働時間規制を問い直すものであるから、挑戦するに値する課題であろう。

時間外労働で肉体的精神的負担は拡大するが費用は縮小する

毛塚意見書は「割増賃金という時間外勤務抑制策」(p11)という。割増賃金は時間外労働を抑制する効果があるというのである。

労基法37条が定める時間外・休日・深夜労働に対する割増賃金は25%〜50%であるが、この割増賃金を支給したくないから使用者は時間外労働等を抑制することになるであろうか。

例えば、1労働者を毎日8時間時間外労働させた場合と新たに1労働者を追加雇用した場合の賃金を比較すると下記のとおりとなる(時間単価a、割増賃金25%、一日8時間、月20日労働)。

1労働者が8時間時間外労働を行う場合

賃金時間外労働手当賃金・時間外労働合計
月額 a×8時間×20日=160aa×1.25×8時間×20日=200a 
年額 160a×12月=1920a200a ×12月=2400a 
ボーナス(年間4.5月)  
160a×4.5月=720a  
扶養手当、通勤手当その他手当  
賃金合計時間外手当合計 
2640a2400a5040a

2労働者が時間外労働を行わない場合

1人目賃金2人目賃金合計
2640a2640a5280a

このように、労働者を1人追加雇用したほうが賃金合計は増加する。さらに扶養手当、通勤手当その他手当、社会保険料使用者負担金や福利厚生費を加えると、人件費は1人雇用による時間外割増賃金支給のほうが安上がりになることがわかる。もっともボーナスや諸手当を支給しなければ、時間外割増賃金を支給するほうが人件費は高くなるであろうが、この条件設定は非現実的である。

つまり、割増賃金は時間外労働抑制ではなく奨励に働いているのである。

4 給特法および労基法を超えよ

 給特法が改正されたことについてインタビューされた公立学校管理職が「午後から帰宅できるようになれば」と答えていた。給特法改正では魅力ある教員の働き方は実現しないという。教職調整額が10%に引き上げられたとしても、教員志望者は増えないだろう。それどころか、時間外労働を増やす圧力になりかねない。

 ところで給特法反対論者の多くは労基法適用を主張する。労基法による割増賃金支給あるいはその効果としての時間外労働をなくすことを期待する。しかし、上述のとおり、労基法は必ずしも労働者を保護するものではなく、むしろ労働者への労働時間規制を強いるものでもあった。とりわけ、割増賃金が時間外労働を抑制する効果を持たないことも指摘した。

 給特法および労基法を超えるところに魅力ある教員の働き方があると、筆者は本年1月「教員の働き方を変える視座-文科省・財務省論争、そこを超えるもの-」で提起した。この提起は給特法改正によっていよいよ重要であると自負している。

 本稿で検討した二つの判決は賃金に反映する教員の労働が論点であった。そこで、給特法および労基法に縛られない賃金についての理解を提起する。

労基法11条は「賃金とは、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのもの」と定義しており、労働の対価説(労働に対する反対給付)といわれる。しかし、労働「する」ことに対するのか、労働「したこと」に対するのかが不明である。また労働しない場合(ノーワーク・ノーペイだから)賃金が支払われないことになるが、年次有給休暇について説明ができない。なお、賃金請求権は民法624条で「約した労働を終わった後でなければ報酬を請求することができない」とされている。

ところで、上記3において労働力は商品であることを確認した。労働者は労働力商品を販売して賃金を受け取るのである。使用者は賃金を払って労働力商品を購入するともいえる。

あらゆる商品は市場に入る前に価値を持っており、市場取引(需要と供給)で最終的価格(価値を貨幣/通貨で表現したもの)が決まる。商品の買い手はそれを消費しないこともあるが、だからといって売り手が買い戻す義務はない。労働力商品も同様に、例えば受講生がゼロで授業が行われないなど買い手である使用者が労働力を消費(使用)しない場合がある。その場合でも、労働力は時間の経過とともに消滅していくのであるから、使用者は賃金を支払う義務がある。労基法26条は使用者都合による休業には休業手当として平均賃金の60%以上を支払わなければならないとしているが、商品取引の原則からすれば100%支払うことになるのである。民法624条の賃金請求権がいう「労働が終わった後」とは実際に労働したかどうかではなく、労働力商品の消費(使用)期間が過ぎた後と理解すべきである。レンタカーの借り手が、実際には動かしていなくても、借用時間が過ぎればレンタカーを返却して代金を支払わなければならないのと同じである。

このように賃金を「労働の対価」ではなく「労働力商品の価格」として理解することで、取引(ここでは労働契約)のあいまいさをなくすことができる。

なお、労働力商品の価格について付言しておく。労働力商品の価値も市場に入る前に決まっているのであるが、その価値はあらゆる商品と同じく生産費(再生産費)によって規定される。労働力商品にあって生産費は生活費と養成費から構成される。養成費は教育・研修あるいは経験・熟練によって増加する。したがって、自己研鑽あるいは教材研究は教育・研修の枠に入るから、労働力の価値を形成することになる。価値が増加した労働力商品の価格は上昇することになる。すなわち賃上げである。労働力商品が市場に入るのは、労働力が消滅し再生産された後であるから、次回の労働日の前である。ただ現実的には賃金改定期となる。春闘におけるベースアップ、給料表による定期昇給に養成費は反映する。

このことから、自己研鑽や教材研究は賃金対象となる労働にならないことがわかる。次回の労働に反映されるのである。上記1で、「教材研究を労働として賃金対象とすれば、自ずと使用者の指揮命令の対象となり、使用者の意に反する研究・研鑽ができなくなる」としたが、労働力の価値の観点からもこのことが立証できる。毛塚意見書は、文科省が在校等時間には「勤務時間外における自己研鑽の時間」を含まないとしたことに反対することで、自己研鑽や教材研究を賃金対象である労働とする過ちを犯している。時間外労働の多さを強調するためといえ、自己研鑽や教材研究を賃金対象の労働としてしまえば、労働力の価値増殖は行われず、かつ使用者の意とする研鑽・教材研究になってしまう。

おわりに

 賃金請求にかかる二つの判決および意見書を検討することで、魅力ある教員の働き方へのヒントを探ってきた。この検討には、労働力を商品と理解することが前提になっているが、歴史的には商品でない/特殊商品である/擬制商品であるなどの論争があり、そうした観点から検討することも必要かもしれない。しかし、それは筆者ができることではない。

福岡・非常勤講師も埼玉・教諭も労働力を売って賃金を得ていた。労働力の売買契約(労働契約ないしは辞令・任用書)に基づいた賃金が支払われなかったから訴訟に踏み切ったといえる。ただ、一般の商取引では不可欠の売買契約が存在しなかったかあいまいだったことは間違いない。

未払い賃金訴訟も重要であるが、労働力商品の売買契約である労働契約が誤解を生まないようにすることが大事ではあろう。それには、労働力商品の販売と監視という役割・機能を持つ労働組合が力を発揮しなければならない。

以 上

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